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Hughesの掟-「学術月報」Vol. 58, No. 5, p52-53 (2005). 上村 匡-

生命科学の研究室を主宰する全米中の Principal investigator が羨望してやまない研究費の源の一つが、Howard Hughes Medical Institute (HHMI) です。いったん HHMI の研究費を受けることができた科学者 (Hughes Investigator) は、継続してサポートしてもらうために、いくつかの基準において際立った実績を挙げなければなりません。私が「Hughes の掟」と勝手に呼んでいるそれらの基準の中に、次の一文が含まれています:
They push their chosen research fields into new areas of inquiry, being consistently at its forefront.
私は簡潔にして明快なこの一文を反芻する度に、この目標にいかにしたら近付けるのかを思い、いてもたってもいられなくなります。私の博士研究員時代のアドバイザーは、幾度ものタフな審査を突破して Hughes Investigator をおよそ20年間にわたって続けておられます。私の大学院時代の恩師もまた、応募の機会があるならば間違いなく Hughes Investigator の常連に列せられる生命科学者であり、「掟」の履行証明書を連発しながら研究者街道を猛進中です。お二人とも山中に源泉を発見するがごとく新しい分野を興され、こんこんと湧き出た水が大河に通じるかのように多くの研究者の参入を呼び込み、なおかつその最先端で新しい水路を拓いて研究をリードされているのです。第一回日本学術振興会賞を賜るこの機会に、様々なサポートを頂いて来た御礼を申し上げ、ひるがえって己の・、究姿勢を質したいと存じます。


私は多細胞生物の体作りのプロセス[発生]において、どのようにして器官を構成する個々の細胞が、周囲の細胞との認識を通して、それぞれに特徴的な非対称性に富む形態(極性)を発達させるかを研究しています。細胞が適切な極性を発達させなければ、その細胞は与えられた役割を全うすることができず、個体は重大な障害に襲われます。つまり、細胞極性の形成は個体の誕生と正常な活動を支える基盤なのです。私達のグループは、遺伝子の網羅的な探索方法に優れているショウジョウバエをモデル系として採用し、その神経系や上皮を対象とした研究から多細胞動物に広く保存された遺伝プログラムを発見してきました。そして最近は究極の細胞極性とも呼べる、ニューロンの突起形成により注目しています。

神経回路の形成は、ニューロンが伸ばす2種類の突起(軸索と樹状突起)のパターン形成に支えられています。軸索は信号の出力を担う神経突起であり、一般的に長く伸長して標的細胞とシナプス結合を形成します。一方樹状突起はシナプス入力または感覚入力を受容するアンテナとして働き、軸索よりも短くはるかに複雑に枝分かれします。脳研究において神経回路形成の仕組みを解明することは重要な課題の一つですが、樹状突起のパターン形成(伸長と分岐)に関しては多くの問題が明らかにされていません。ニューロンはクラスごとに特徴的な樹状突起パターンを発達させますが、その驚くばかりの多様性がどのように調節されているかは代表的な未解決の問題と言えます。樹状突起がおおう領域(受容野)の大きさは入力の数を、また、突起の長さや分岐の複雑度は信号伝達などの生理的特性を左右します。従って樹状突起パターンの多様性はニューロンのクラスごとに特有の機能を支えており、神経系が様々な情報を受容し処理するために不可欠です。私の研究グループでは、個体を生かしたまま特定のニューロンの突起パターンを単一細胞の解像度で可視化できる系統を作製しました(図)。この系統を利用した遺伝学的な手法を出発点として、in vitro培養系だけでは明らかにできない樹状突起のパターン形成の基本原理を明らかにすることを目指しています。


冒頭に述べた「Hughes の掟」に、私自身のサイエンスを照らし合わせてみます。私は大学院時代に遺伝学的アプローチの重要性とそ・フ威力を学び、この基礎が私の以後の研究方針の重要な骨格となっています。その一方で、突然変異体の分離から新しい遺伝子発見の第一報に興奮する宝探し時代は、とうに終焉を迎えつつあります。私は個別の宝探しにおいては健闘してきたつもりですが、自分の選んだ分野から生命科学の新しい流れを生み出し、かつその先頭を走り続けているかと問われると、まだまだそのレベルには遠いと白状せざるを得ません。個別に遺伝子を拾い上げるだけでなく、システムの全貌を捉えるアプローチの重要性を痛感します。例えば、樹状突起パターンに興味を持っておられる研究者から数学的なアプローチを示唆して頂きました。私の数学の知識は錆び付いてしまっていますが、門前の小僧としてやり直せないか試みたいと思います。

最後になりましたが、暖かく、しかし安易な発想には厳しいまなざしを注いで下さる助手時代以来のアドバイザーに、心からお礼申し上げます。さらに、叱咤激励下さった多数の先生方、忌憚のない意見を与えてくれる研究者仲間、共に研究してきた大学院生の皆さん、そして私を激励して下さり自らは志半ばで逝かれた先輩を忘れる事はできません。